ジープ誕生9
1/4トン車両の終焉
 ウイリスは戦後直ちに来るべき高速時代にあわせた新しいOHVエンジン「ハリケーン」の開発を進め、1950年から新設計のMD(M38A1)に搭載しました。
このエンジンは従来のしへッド・ェンジンのブロックにインテークバルブを組み込んだヘッドを組み合わせたもので、そのためヘッドが約10センチ高くなり、これに従ってボディ全体を流体力学的に設計し直し、MB/GPWM38よりも一回り大きいジープとなったのです。

MB/GPW、M38の左右のステップを廃止し、丸みのあるボンネットを車幅いっばいに広げ、ホイール・ベースも81インチに拡大された結果、一回り大きい印象を与えますが、上面からの投影面積はM38とほとんど同じで、大型化したことにより、ウイリスのそれまでのジープに比べてはるかに運転しやすいが、重量が増大した分だけ究極のオフロード性能ではMB/GPWに劣るジープとなっています。

ただし、機械的な内容はエンジン以外はミッション、ファーケース、700X16タイア、24ボルト電装、防水仕様を標準とするなどM38と殆ど同じで(厳密にはかなり多くのパーツが改善してあり、末期のM38A1にはM151のものがすでに使用されています)このため外見上は別の車のように見えてもM38A1(M38の改良型という意味)という名称が与えられたのです。

 ウイリスはほぼ同じ時期にCJ3Aにハリケーン・エンジンを搭載し、ポンネットを高くしただけのCJ3Bも製造していますが、こちらは主として友好国に技術移転され、日本、インド、フランス、ブラジル等で生産され、アメリカではこのM38A1は後に民需型のCJ5、6、7として発売され、CJジープの黄金時代を作りました。

 M38A1は愛称を「ブルドッグ」「ダルマ」などと呼ばれ、1952年から1971年までに約10万台が生産されて、朝鮮戦争の最末期に前線に姿を現し、べトナム戦争の前半まで使用されて、米軍の最後の「軍用ジープ」となりました。


 米軍は50年代に入ると1960〜70の1/4トン車としてM38A1に代わるより近代的な「ジープ」の開発に着手します。
軍と協力して新世代の「ジープ」の試作を担当したのはフォードで、「ジープ」に執着を持たず、乗用車のエキスパートであるフォードを選んだところにM38A1と根本的に異なる車を目指した米軍の意図が感じられます。

 はたして1959年から二産に入ったM151はそれまでのウィlJスM38A1と全く異なった斬新な設計となり、世界の注目を浴ぴました。ただしパテントの関係で「ジープ」と呼ぶことができず、MUTT(Military Utility TacticaI Truck)とネーミングされましたが、そのシルエットも用途も「ジープ」以外の何者でもありません。
1963年前期からフォードに代わってウイリス、63年後期には社名が変わったカイザー、更にAMジェネラル社が受注して二産していますが、公式にはジープではないのです。

 M151はユニット・コンストラクションと呼ばれtるセミモノコック・ボディに、 コイル・スプリングを介した4輪独立懸架を備え、英フオードが乗用車「エスコート」に搭載してレースなどで定評のあった0HV2,319cc、71馬力ガソリン・エンジンと、前進4速のトランスミッションによって、それまでにない乗り心地の良さと、ロー・シルエットと軽量化を実現し、大きな期待を持たれました。

しかし、配備された当初リア・サスペンションの欠陥からカーブでの事故が続出し、A1、A2と、主としてサスベンション強化及ぴ安全面での改修を経て完成した車となりました。
残念なことにこの初期の事故によるトラブルから、そのままでは民間に払い下げないという連邦法が成立し、ボディを真っ二つに切断するか、クラッシュして使用不能として払い下げるという悪法が今日でも有効で、このため、MB、M38以上に貴重な「ジープ」となっています。

 M151シリーズはA1、A2及びそのバリエーションは全部で約20万台が生産され、ベトナム戦争で主役を演じた後、1980年代に11/4トンと大型化されたハンビーに代替されて50年にわたった米軍での1/4トン車の歴史を閉じました。

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