ジープ誕生4
ウイリスの動き
 当時ウイリス社には技術本部長デルマールースという練達のメカニックでありビジネスマンだった人がいました。

この人は陸軍がジープの公開入札をする前にしばしば自社の小型車を売り込んだり、補給部が将来の「ジープ」をどのようなものにするかについて意見を述べてきた人で、来るべき「ジープ」がどのような車であるかについてはっきりした見識を持っていたといわれています。

彼は入札前から軍が要求した納期や重量制限ではロクなものは出来ないといって、それを無視して、独自にプロトタイプの開発を進めていたのです。

ウイリス・クワッド(QUAD)と呼ばれる試作車がホラバード試験場に搬入されたのは1940年11月13日で、ルースはそれまでにテスト中のバンタム・プロトを徹底的に研究して造りあげた試作車は1,099キロとすでに引き上げられていた上限よりも100キロ以上も重い車となっていました。しかし、頑丈さと燃費は悪いが粘り強いエンジンは他に比べて勝っていたといいます。

外観はバンタムの影響を強く受けていましたが、ルースは更に重量軽減とデザインの改良を続け、間もなくMAに変身しました。

 ウイリスがべ一スとしたのは自社の乗用車「アメリカー」。
フレームをきりつめて強化し、同じく「アメリカー」で使用していた2,200cc[ゴー・デビル・エンジン]をチューンしたもので、同車はそれまでに道路事情の悪い南米やフィリピンなどにタクシー・キャブとして輸出されていた実績があったので、エンジンを探し、フレームも新製しなけれは、ならなかったバンタム、フォードに比べてはるかに有利な立場にあったのです。

 バンタム、ウイリス、フォード各社の試作車が出そろった1940年11月14日、補給部は量産能力を見るため各社に1,500台ずつ発注し、ウイリスはのちMBの母体となるMAモデルを製造を開始します。MAはその大半がソ連軍に供与されアメリカにはほとんど残らなかったため三社のプロト,タイプの中でもっとも希少価値が高く、今のところ全世界で8台が確認されているだけで、よくレストアされているものは5万ドルの値がつきます。

現存数の少ないウイリスMA。
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