ジープ誕生6
生産開始
 1941年に入ると援助物資として送り届けられたバンタムBRC‐40、ウイリスMA、フォードGPはヨーロッパ、北アフリカ戦線でナチ・ドイツ軍と死闘を繰り広げる連合軍の手足となって活躍し、戦場でのデーターは毎日のように補給部に集積され、国内での評価テストもほぼ完了した。

 アメリカ各部の陸軍基地で行われたプロト・ジープ3車の実用テストの最終的なデーターはエンジン出力でウイリス・ゴー・デビルが他を圧倒して優位に立ち、燃費、制動力はバンタム、フォードは性能とあまり関係のない「快適性」で評価を得、総合点で1・ウイリス、2・バンタム、3・フォードの順となっていました。

 補給部は3車の利点を結合して新たに試作車を設計するかそれともウイリスを取り上げるかの決定を迫られていましたが、もう残された時間はわずかでした。
その間、各メーカーはマスコミを動員して製造能力を宣伝し、受注額を上げるための厳しい交渉と活発な議会工作をしていましたし、フオードやスパイサーは度々ストに見舞われたり、ウイリスも納期が遅れるなど決して簡単に決定出来る情勢ではなかったのです。

 そんな中で軍の中にもあったいろいろな意見、特に最初の「ジープ」を提出したバンタムに優先権を与えるべきだという強い圧力は政府関係者や軍上居部からも出ていましたが、1941年6月、補給部は純粋に技術的な結論に基づいて
1.ウイリスMAのボディ構造と、ウイリス422ゴー・デビル・エンジンを基本として、
  フオードGPのフロント・エンジン・デザインを採用すること。

2.フォードはその車両と100%パーツ互換性を持つ車を製造すること、及び速やかに   そのための設備を整えること。
を決定。1941年7月21日ウイリスとの間に18,600台の契約を結んだのです。


 ウイリスMBの誕生です。
バンタムはその頃従業員450人に拡大しており受注見通しがつけば直ちに更に増員し、ウイリスMBと同じ車両を生産すると宣言していたのにもかかわらず外されてしまったのです。

これは今に至るまで旧バンタム関係者に恨みを残しているだけでなく歴史家の間でも議論となっています。
フォードも不満でした。従業員10万人以上を抱える巨大企業です。しかも技術的にもウイリスなど問題にしないほど熟練した誇り高い世界一の自動車メーカーが、中規模のメーカーにすぎないウイリスの名のもとに、ウイリスの図面通りに製造するということだけで傷ついたことは想像に難くありません。

そのうえウイリスMBはフォードが考案したフロント・エンド(スラット・グリル)と、フオードGPが先鞭をつけたリアパネルに社名を打刻していたのです。

それはその頃になるとすべての決定権を持ち、細部に至るまで指示していた補給部の技術将校団の了解を得たうえでのことでしたが、フォードの技術陣はさぞかし頭にきたことでしょう。

 フォードは今日に至るまでこの時点で社内でどのような議論が行われたか明らかにしていません。ミシガン州ディアボーンにあるフォード・ミュージアムに残されているのは実に淡々とした記録だけです。
しかしフォードは政治的に動きました。今やイギリスは完全に孤立し、ソ連も瀕死の状態、いずれ日米対決も避けられない情勢で、その年の12月7日、日本軍による真珠湾攻撃で、全米が団結して総力戦に突入、フォードを悩ませていた労働争議は消し飛んでしまう歴史の大きな転換点の直前だったのです。

 11月11日、フォードは補給部の提案を受理しました。立ち上がりはウイリスのフレーム、エンジンを使用し、早急に製造設備を整えることを条件として第一回契約分15,000台のGPWの量産契約をします。

ところがフォードはそのまま生産したわけではなかったのです。翌1942年1月はじめにライン・オフしたGPWはもう度人々を驚かせました。
スラット・グリルではなく、今日の三菱J25に至るまでのすべてのジープの顔となり、あとで厚かましくもウイリスがデザイン権を主張したあの一枚プレスのグリルがつけてあったのです!


Ford GPW

それだけではありません。フォードは殆どすべてのパーツを互換性の範囲で合理的に設計し直し、ガスケットにいたるまで自社のイニシャルであるFのマークを打刻して製造し始めたのです。
そこにはフォードの技術陣の強烈な自己主張が見られます。

一説にはフォードは前線で故障した時に、そのパーツがフォードのものか、ウィリスのものか判断出来るようにし、差別化を図ったといわれますが、戦時中のクレームの統計はまだ発表されていません。
いずれにしてもこのフォードの誇り高い「意地」が後世のマニアに限りない興味を呼び、MB/GPWのロマンをかき立てているのです。

 フォードのプレス・グリルはすぐにウイリスもそれに倣うよう補給部から指示され、1942年6月頃補給部の指示によりリアパネルの社名のプレスは廃止され、1944年8月になるとGPWもウイリスと共通ボディを載せるなどの変更が加えられながら、1945年8月に生産が打ち切られるまでに両社合わせて64万台とこの種の小型4X4では史上最高の生産台数を記録して、全世界にばら撒かれ、連合軍の勝利に大きく寄与。その歴史的な使命を終わります。

フオードはこのほかに水陸両用車GPAを6,000台生産し、対日勝利の日1945年8月15日に全生産をストップ、以後ジープに関してはすべての権利を放棄していますが、ウイリスは「ジープ」の権利を主張し続けました。

 MB/GPWは戦時の緊急事態の中で製造されたため幾つかの欠点を持っていますが、戦時中全世界にまたがったパーツ補給のシステムが混乱することを避けるため、当時すでに明らかとなっていた問題点をペンディングしたまま製造されています。

その一例として、ベルクランクの取付位置があります。軽量化のためにギリギリまでに肉薄にされたアクスル・ホーシングの上にピボットがつけられたため、急ブレーキ、急発進でホーシングが前方に傾き、ベルクランクが作動して車両が左側にステァしてしまう点です。応急措置として左側のフロント・スプリングの後ろ下側に補強の板(トルク・リアクション・スプリング)を入れていますが、他にもリアパネルの強度など応急手当ですましてある個所が沢山あり、戦後の改善に持ち越されています。

 今日の愛好家にとって最大の問題点はオイル漏れや低い最高速度などですが、50年前の技術水準としてはそれでも最高のものだったことを考慮すべきで、あえて現在の水準にあわせ、高速時代に適用させようとする試みはMB/GPWのオリジナリティを破壊するだけで、苛烈な歴史を乗り越えて生き残ったジープに対する冒涜です。速く走りたい方はMB/GPWを持たないでください。


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