ジープ誕生7
戦後のあゆみ
 1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦時中の4年間ほとんどすべてのラインを軍需生産に切り替えていた世界の自動車メーカーは一斉に爆発的に広がると予想される復興需要の民間型トラックと乗用車市場へとシフトしました。

しかし、ウイリス・オーバーランド社はジープだけに全精力を注いでいたために乗用車生産の準備は皆無で、やむなくMBに若干手を加えてCJ2Aとして市販しました。

この試みは当時非常に心配されたのですが、Glとしてジープに慣れていた復員軍人や農業用、建設用に想像した以上の需要があり、ウイリスは戦時中MB/GPWでペンディングされていた改善を施したCJ2Aで独自のマーケットを切り開きます。
 CJ2Aは基本的にはMBと同じシャーシーですが、リブを入れて強化したボディと、弱いといわれていたトランスミッションや、シンダー・へッド及び電装を一新したニュー・モデルとして登場。マーケットから好評でした。1947年には更に各部を強化したCJ3Aの発売に漕ぎ着けます。

こうしてウイリスはジープから離れられないままに、1953年にカィザーに買収されるまでその名をアメリカの自動車史に残しました。

 一方米軍は膨大なMB/GPWを保有していましたが、世界中から寄せられる復興需要に応えて援助物資として輸出しても、なおあまりある台数をストックしており、新規の発注は全面的にストップしていました。が、1950年に始まる朝鮮戦争は東西冷戦の発火点となり、次期車両システムの検討を迫られます。

 米軍がこの時期に定めた次期軍用車両は6〜12ボルトを一挙に24ボルトとし、制式の戦術車両はすべて防水装置を標準とすることや、形式名をそれまで戦闘車両等だけに付与されていたMに始まる一連番号とするなどの改変がおこなわれました。これがいわゆるMシリーズ軍用車両群の登場です。

ジープもこのシステムの一環として、1950年にCJ3AをベースとしたM38が生まれ、朝鮮戦争にギリギリに間にあって生産されました。しかし米軍は一方ですでにOHVエンジンを搭載する次期ジープの開発を進めていたので、M38はそれまでのつなぎのジープとして考えられていたようで、64,419台を生産したのち次のM38A1へ移行しています。


M38


 M38は民間型から転用したため、それまで捻じれ対策と、弾片による破損を片側にとどめる目的で二枚とされてきたウインド・グラスが一枚となっている点や、民間で小型トラックとして使用する際のボディ・フロアの構造などにその痕跡を残しているものの、基本的にMB/GPWと同じ寸法の車体に700X16のタイヤを履き、シュノーケルを二本高々と差し上げた防水仕様の機械美と、その完成度によって見違えるほどメカニカルでスパルタンなジープとなっていて、その独自の風貌はいまでも多くの熱心な愛好家を生み出しています。

生産台数や補給パーツも少なかったこともあって、M38はレストアの難しいジープといわれ、純正に近いものは日本では数えるほどしかありません。

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