深い緑の森のなかにそびえる仙台城石垣の姿。青葉城とも呼ばれる仙台城は、愛唱歌「荒城の月」にも歌われ市民に親しまれてきました。
 いま、この仙台城本丸の石垣に熱い眼差しがそそがれています。1997(平成9)年から始まった石垣修復の工事にともなう仙台市の発掘調査で、現存石垣の裏側から伊達政宗が最初に築いた石垣(1期石垣)、それが地震で壊れた後に造りなおされた石垣(2期石垣)、巧妙な排水施設などが出土したのです。現場にのぞめば、「近世(江戸時代)土木技術の博物館」、「石垣博物館」という評価にも納得がいくことでしょう。
 また一方で仙台市は、仙台開府400年記念事業の一環として、仙台城本丸跡に艮櫓を復元する事業を進めてきました。そのために、石垣と艮櫓との関係、石垣の保存・活用をめぐって、様々な意見が交わされることになったのです。
 そのようななかで昨年11月、仙台市長は、「3期の石垣の上に艮櫓を建てる」という「判断」を下しました。しかし、このようなことで仙台城の石垣がはたして後世に伝えられるのでしょうか、歴史上、存在しなかった櫓を建てるということがあって良いのでしょうか。私たち、仙台城の石垣を守る会は、歴史ある文化財としての仙台城のあり方、その行方に深刻な危機感を抱き、活動をはじめました。
 仙台城の石垣は400年も昔に造られたものであり、それを理解するためには、どうしても建築や歴史の専門知識が必要となります。私たちは活動を進める中で、意見の対立点や、根拠などがわかりにくい、難しい、という声をたびたび耳にしています。そこで、より正確で客観的な事実を提供し、皆さんの議論のたたき台となることを願って、この小冊子を編集しました。
 仙台に生きた人々が織りなした400年の時の流れに思いをはせて、未来の街の姿を語り合うこと、それこそが真に開府400年にふさわしいことではないでしょうか。

も く じ    

 

甦った政宗の石垣

  石垣発掘の成果 ―1期・2期・3期とは―

仙台城の真実の姿を求めて

  絵図にみる仙台城
  史実の艮櫓 ―ひし形櫓の可能性―
  なぜ伊達家は櫓を再興しなかったのか

1期石垣の保存と艮櫓建設

  艮櫓建設と1期石垣保存は両立するか
  市長「判断」三つの問題点
  安全性について―地震が起きたら、櫓は残って石垣は崩壊?

仙台城のよりよい活用法を考える

  国指定史跡をめざす
  新しい文化観光の時代へ―城下町仙台の史跡整備―
  仙台で石垣サミットを―開府400年記念事業の目玉として-
  検討委員会の再設置を        

 


 

甦 っ た 政 宗 の 石 垣

石垣発掘の成果 ―1期・2期・3期とは―

 1997年7月、仙台市は、仙台城(青葉城)本丸石垣の解体修復工事に着手しました。それにともなって行われた発掘調査により、これまでの仙台城像は大きく塗りかえられることになりました。支倉常長との関連が考えられるヴェネツィアやボヘミアで作られたガラス器、金箔のおされた豪華な瓦、中国製の高級陶磁器。意外な出土品の数々によって、仙台城の歴史的文化遺産としての価値は、さらに高まったといえます。
 なかでも、これまで私たちが親しんできた、高くそびえる石垣の裏側に、伊達政宗の築いた石垣が二層になって出現したことは、歴史に関心を持つ市民に大きな衝撃を与え、関心を呼び起こしました。この三重になった石垣を、一番奥の古いものから順に、1期石垣・2期石垣・3期石垣と呼びます。

発掘前の本丸石垣(1997年10月)
発掘中の本丸石垣(1999年10月)

1 期 石 垣 ― 政宗が最初に築いた「戦う石垣」―

 1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの終了後、政宗は仙台城の築城を開始しました。この最初の工事で築かれたのが、1期の石垣です。1602(慶長7)年には完成したと考えられています。この石垣は、自然石をそのまま利用し、中世千代城の地形を利用しながら、山の斜面に張り付けるようなかたちで積み上げられていました。傾斜は約48度と緩やかで、高さ5〜6mごとに小段を設けていたこともわかりました。当時、政宗は家康から与えられた「百万石のお墨付き」を実現すべく、上杉領への侵入を繰り返していました。1期の石垣とは、こうした臨戦体制のなかで、できるだけ短期間で築かれたものでした。

 

 

2 期 石 垣 ― 話題の艮櫓がのっていた石垣 ―

 1616(元和2)年、仙台を大地震が襲いました。1期の石垣は、この地震によって、完成後わずか十数年で崩壊し、政宗は再建に取りかかります。この時築かれたと考えられるのが2期の石垣です。「元和偃武」と呼ばれる平和の時代の訪れを背景に、石垣にはさまざまな工夫が凝らされました。1期と同じく自然石を利用しながら、ノミで削ったり、割ったりした石も混在しています。傾斜は約60度とかなり急になり、途中に小段を設けずに一気に積み上げました。裏側の土台には崩れ残った1期の石垣を用い、また高度な排水設備がほどこされています。
 現在、話題になっている艮櫓は、この石垣の北東の角に建っていたものです。2期石垣のあった時期には計5基の櫓がそびえ、御殿の整備も行われて、仙台城本丸はもっとも充実した姿を見せていました。その様子はいわゆる「正保の絵図」で確認することができます。しかし、1646(正保3)年、再び襲った大地震により、2期石垣は、かなりの損害を受け、艮櫓をはじめとする櫓もすべて倒壊しました。櫓の連なる仙台城の姿は、わずかに30年足らずのはかないものでした。

3 期 石 垣 ― 政宗死後に築かれた石垣の完成形 ―

 正保の大地震のあと、二代藩主忠宗の治下、仙台城は残された2期石垣をそのまま利用するかたちで、いったん再建されます。しかし1668(寛文8)年、みたび大地震が襲い、2期石垣は全壊に近い状態となりました。1673(延宝1)年、幕府から許可を得た仙台藩は再建に着手、工事中にも大地震に見舞われましたが、1683(天和3)年に修復を終えています。この工事で築かれたのが、私たちがこれまで目にしてきた3期の石垣です。
 3期の石垣は、1期と2期の石垣を土台に取り込み、表面を整然とした切石で仕上げたものです。その工法は、後世、江戸時代末期のものではないかという誤解を生むほど、見事なものでした。4回にわたる大地震とのたたかいは、仙台の地に、急速に高度な石垣構築技術を育んだといえます。その後も江戸時代だけで7回もの大地震がありましたが、3期の石垣はびくともせず、現代にその姿を伝えてきたのです。

 

目次へ

 

仙台城の真実の姿を求めて

絵図にみる仙台城

 ありし日の仙台城の姿を知ることができる資料は、江戸時代から伝わる下記の4点の絵図面などで、きわめて限られています。石垣の修復と艮櫓の再建は、これらわずかな資料に基づくわけです。それゆえ絵図面の解釈が大きな問題となります。4点の絵図面について、以下に紹介しましょう。

 

「奥州仙台城絵図」(斎藤報恩会蔵)

この絵図は、仙台城ならびに城下町を描いた絵図のなかでは最も古く、1645〜46(正保2〜3)年頃の作成と考えられています。この絵図が描かれてまもなく起こった正保の大地震によって、仙台城本丸は壊滅的な打撃を受けました。したがって絵図はその直前の、2期石垣の上に建設された最も完成された時期の仙台城本丸を描いています。実在した艮櫓が描かれている唯一の絵図です。
 この絵図は、幕府が全国に発した絵図提出命令によって描かれたもので、二代藩主忠宗による二の丸の建設と仙台城下の整備が一段落した状況が明らかになっています。幕府に報告するために作成されたものと考えられます。このような絵図を一般に幕用図と呼び、幕府によって定められた形式が守られ、いつ幕府のチェックを受けてもよいように、細心の注意がほどこされて描かれました。したがって、軍事上重要な石垣の形状、櫓の位置や規模・形態などは、当時、最高の作図技術を用いて、可能な限り実際に近いかたちで描かれたと考えられます。

「仙台城下絵図」(宮城県図書館蔵)

1664(寛文4)年、すなわち正保の大地震の修復が終わった後の仙台城の状況が描かれています。「寛文の城絵図」とよばれます。本丸上にあった5基の櫓・東側の石垣が無くなっています。石垣の形状から見て、描かれている石垣は2期のもので、この時期、仙台城は、地震後も残されていた2期石垣を利用するかたちで、いったん再建されたことがわかります。しかし、この2期石垣は、1668(寛文8)年の大地震により、ほぼ全壊に近い状態となってしまいました。

 

「肯山公造制城郭木写之略図」(宮城県図書館蔵)

「肯山公」とは、四代藩主伊達綱村の死後の尊称、「木写」とは木製の模型のことで、つまりこの図の題名は、「(お亡くなりになった)肯山公がお作りになった城郭模型の略図」という意味になります。
 本丸・二の丸の建物を平面図として描いたものですが、石垣の形状はあきらかに3期のものです。しかし発掘によって3期石垣上には存在しなかったことがはっきりしている艮櫓や能舞台、さらには実際には一度も造られることがなかった天守閣までもが存在したように描かれており、またこれらの位置も現実の遺構とは一致しません。したがってこの絵図は、3期石垣の上に、どのように建物をつくるかを検討したモデルプランのひとつを写したもので、天守閣があることなどからみると、当時としても現実性はなく、観念的・空想的なモデルプランだったとみられます。したがって現実にそうであったように、この図面に描かれたプランは比較的早い時期に捨てられたと考えることができます。

「奥州仙台城并城下絵図」(宮城県図書館蔵)

1682(天和1)年のものです。報告書で「天和の城絵図」としてとりあげられています。この翌年、寛文の大地震からの復興工事が完成し、3期の石垣が、現在見えるような形になりました。描かれている本丸石垣の形状は、3期石垣の現状とほぼ一致しています。
修復工事終了直前に描かれた、幕府への報告用絵図ではなかったかと考えられます。「肯山公木写図」の空想的プランに対して、この絵図は現実的プランを描いたものでした。艮櫓をはじめとして、かつて櫓が建っていた場所の近くには、「此処元櫓有」と記されており、この言葉から、この時点ですでに、櫓を建設しようとする意志はなくなっていたことがわかります。

目次へ

 

史 実 の 艮櫓 ― ひし形櫓の可能性 ―

「艮」とは?

江戸時代、方角は「子・丑・寅」の十二支にあてはめられていました。子の方角が真北で、丑の方角は真北から30度東に回った方角、寅の方角とは60度回った方角となり、丑と寅の間、すなわち真北から45度東に回った方角を艮と呼びました。現在の言い方では北東に当たります。古来、艮の方角は鬼門、つまり悪いことがやってくる方角とされました。仙台城の艮櫓には、鬼門の方角から城を守るという意味も込められていたのです。

艮櫓が存在した時期

艮櫓は、1616(元和2)年の大地震で1期石垣が崩れた後、新たに造られた2期石垣の上に建てられました。政宗の娘である五郎八姫がこの櫓から城下を眺めたといわれ、政宗存命中には建設が終わっていたようです。しかし1646(正保3)年の大地震でこの艮櫓は失われ、その後、再建されることはありませんでした。艮櫓が仙台城下の人々にその姿を見せていたのは、17世紀前半の、わずか30年足らずでした。

艮 櫓 の か た ち

艮櫓のかたちを知る唯一の手掛かりは、「正保の城絵図」であるとされてきました。絵図では石垣の東北角に、石垣の形状に沿って建てられた、三重の屋根を持った櫓が見えます。今回の発掘調査で2期石垣が発見されたことから、2期石垣に合わせて建てられていた艮櫓のかたちを、ある程度、類推できるようになりました。
 発掘によると、2期石垣の東北角は、3期石垣のように直角ではなく、かなり開いた形状であったことがわかります。この発掘で得られた情報をもとに、改めて「正保の城絵図」を見ていくと、東北の角はやはり直角ではなく、やや開いた形状で、さらに角の部分が切り落としたようなかたちとなっていることが注目されます。もし、この絵図に描かれた石垣の平面形が正しいとすると、艮櫓は直角で構成された平面形ではなく、ひし形か、あるいは五角形の、きわめて特徴のある姿をしていたことになります。正保の大地震後に描かれた「寛文の絵図」では、艮櫓のあった場所は完全になくなっていますが、本丸詰の門の東西にあった櫓の平面形が描かれていて、東側の櫓が北西の角が120度ほどに開いた不定形の四辺形、西側の櫓が五角形であったことがわかります。同時期に作られた艮櫓もまた、ひし形か五角形の、大変に興味深い建築物であった可能性が高いと考えられます。

 

金 沢 城 菱 櫓 の と り く み




 角が直角ではない建物。これは一見、奇異
に感じますが、江戸時代の城では、比較的例
の多いものでした。そのひとつが金沢城の菱
櫓です。「菱形の櫓」という名前の通り、平面形
はひし形で、どの角も直角ではありません。こ
の櫓は1881(明治14)年に二の丸の御殿な
どとともに焼失しました。

 

 

 

 


 金沢市では、1809(文化6)年の菱櫓再建記録や明治初期の古写真、発掘調査資料をもとに、1999(平成11)年から菱櫓の再建に着手、最近、全体の姿が見える段階に達しました。菱櫓は平面形はひし形なのに、隣接する橋爪門続櫓(直角で構成されている)と同じく、きちんと正面を向いているように見えます。これは屋根の角度や軒の深さなどを微妙に調整して、人間の目に、いわば錯覚を起こさせていることによるもので、伝統建築のすばらしさを改めて認識させる工事となっているそうです。
 仙台城の艮櫓は、ひし形、あるいは五角形という変わった形で2基石垣のうえにそびえていた可能性が、きわめて高いのです。しかし現在、仙台市が計画している復元設計図によると、艮櫓の平面図は正方形になっています。これでは史実に反しているといわざるを得ません。

目次へ

 

なぜ伊達家は櫓を再興しなかったのか

もとに戻すのが基本

1646(正保3)年の大地震により、艮櫓など本丸上の櫓はすべて倒壊し、建物の大半も大きな被害を被りました。仙台藩はその修復を目指して、幕府に願い出たと考えられ、翌1647(正保4)年に、老中奉書(将軍が決定したことを、老中が伝えるという形式の幕府文書)によって、「如先規、修補尤候」、つまり「前々のように修復することはもっともであります」と、櫓を含む建築物をもとのように建てることが許可されました。
 当時、藩主の居城であっても、城はすべて幕府のもの。藩は幕府からそれを預けられているという立場にありました。したがって、どんなにささいな工事でも、すべて幕府に届けて許可を受けることが必要で、また、幕府のものでもありますから、きちんと使える状態に修繕し、管理することも義務付けられていました。つまり、お預かりしたものをもとのかたちに戻すという基本から、仙台藩は、はじめのうちは櫓を再興する考えを持っていたのだといえます。

櫓の場所だけを確保

しかし、仙台藩は早いうちに櫓を復活することを断念した模様です。1682(天和2)年の「天和の城絵図」では、石垣上に「櫓場」という空き地が描かれていますが、その近くには「此処元櫓有」、つまり「ここにはかつて櫓がありました」と記されています。3期石垣完成という時点においては、もはや櫓を建設する意志は無くなっていたのです。
 「櫓場」として、その場所を示しているのは、城が幕府の持ち物であったことによると考えられます。太平の世ではありましたが、城はもともとが軍事施設。いつでも必要に応じて櫓を建て、戦闘に備えなくてはなりません。したがって、櫓を建てるべき場所には、ほかの建物を建てたりせず、「櫓場」として確保しておく必要があり、また、ちゃんと確保していることを絵図面で幕府に報告したものと考えられます。

移り変わるシンボル

では、なぜ櫓を建てなくてよくなったのでしょうか。火災や地震で喪失した櫓の復活を断念している例は、江戸時代半ばからは、むしろふつうになっていました。幕府でさえも、1657(明暦3)年の「振り袖火事」で焼けた江戸城天守閣の復興をあきらめています。また、弘前城のように、焼けた天守閣の代わりに、別の櫓にその役割を振りあてたりもしています。

 明暦の大火(1657)によって焼失した江戸城の天守閣は、その後江戸時代を通じて再建されることはなく、天守台のみが残っていた。これは一般に財政が窮乏し、社会的な負担が大きくなったことによるものとされますが、さらに、天下が定まって半世紀を越え、もはや武威でもって、人々を威圧する必要が無くなっていたことを考えておく必要があるでしょう。
 とはいえ城本来の機能を考えると、石垣だけはいつでも使えるようにしておく必要があったのでしょう。江戸城もまた、ふたたび天守閣を建てることはありませんでしたが、見事な天守台の石組みだけは築きました。幕府や藩のシンボルは、高々とそびえる天守閣や櫓から、きちんと組み上げた石垣に移行していたということができます。

目次へ


1期石垣の保存と艮櫓建設

艮櫓建設と1期石垣保存は両立するか

 今回の石垣修復工事が始まった当初、古い石垣が埋まっていようとは誰も思っていませんでした。ところが土の中から1期・2期石垣が姿をあらわしたのです。まさに思いもかけない「政宗公からのプレゼント」です。
 ところがここに問題が起こります。艮櫓とのかねあいです。当初の計画どおりに3期石垣上に櫓を建てると、その基礎工事によって1期石垣が壊れてしまうことがわかったのです。3期石垣の上に櫓を建てると1期石垣が壊れてしまうとは、どういうことなのでしょうか。少し回り道になりますが、まず3期石垣の東北隅という場所のことから話をしましょう。
 私たちがビルの屋上にのぼったとして、角に立つのと角から離れて立つのとでは、どちらが不安定でしょうか。いうまでもなく角に立った場合です。これと同じように、石垣の角に櫓を建てれば、それだけ不安定さを増すことになります。もう一つ考えるべきことがあります。3期石垣は、地山(岩盤)の先に盛り土をして築かれています。自然の地山より、人工的な盛り土の方が崩れやすいのは道理でしょう。しかも地山は北・東方向に傾いていますので、当然、石垣の北東端に行けば行くほど盛り土が厚くなり、逆に本丸の地面から地山までの距離が遠くなります(約17メートル)。つまり3期石垣の北東隅とは、本丸上で最も不安定で崩れやすい場所ということになります。
 わざわざそこに櫓を建てるということになれば、よりがんじょうな基礎工事をする必要がでてきます。しかも仙台城跡は一切の史跡指定を受けていませんから、建築基準法にのっとって強固な現代的基礎工事をほどこさなければなりません。そこで仙台市は、櫓の基礎に直径2メートルのパイル(杭)を6本も打ち込み、それを補強する地中梁を入れることにしたのです。そもそも遺跡にこのような工事をすること自体、大問題です。それに加えて今回の場合は、基礎工事をする予定のまさにその場所に1期石垣が姿をあらわしたのです。ここに「3期石垣隅への櫓建設=1期石垣の破壊」という関係が生まれることになります。当然のことながら、櫓の建設位置が史実にあっているのかどうかという論争とともに、1期石垣を保存できるのかいなかという議論がまきおこることになります。新聞紙上で応酬がなされたり、シンポジウムが何度も開かれたりしたことは、みなさんご承知のとおりです。
 そして、2000年11月14日、仙台市長によってこの問題に対する行政側の「判断」が示されることになります。要点は次の二つです。

直径2mのコンクリートパイルが打ち込まれる地点のひとつが、画面みぎの組み足場の中央下部(赤い木杭が見えていた)。そのすぐ下ぎりぎりの所までT期石垣が迫っている。

 

市長はずいぶん悩んでこの結論に達したようですが、はたして、この案で1期石垣は保存されるのでしょうか。

目次へ

 

市長「判断」三つの問題

 市長は、1期石垣を保存するために最大限配慮をするといっています。具体的にどのような配慮をするというのでしょう。それは、当初の計画よりパイルの位置を数メートルずらすことで、石垣の破壊をさけるというものです。しかし、これで本当に1期石垣は保存されるといえるのでしょうか。また、そもそも市長の石垣のとらえ方は正しいのでしょうか。問題は大きく分けると三つあります。順をおって説明しましょう。

1期石垣の範囲をどう考えるか

市長は、保存すべき1期石垣の範囲を非常にせまく考えています。もう一度述べますと、「1期石垣の積み石、およびそれを支える裏込め石層が一体と推定される範囲」です。これは、現在積み石が露出している部分とそのすぐ後ろの裏込め石の部分をさします(断面図参照)。市長はこの部分を「本質的価値」をもった部分だといいます。
 現在、1期石垣の積み石が露出している部分の上にも裏込め石層が続いていることが確認されています(次頁の断面図)。市長もそこが本来は石垣の一部であったことを認めています。ところがこの部分に「本質的価値」はないとして、保存対象外にしてしまうのです。これは今回の発掘の意義を軽視したものといわざるをえません。 今回の調査の特徴として、石垣背面の広い面積を掘るという他に例を見ない方法をとったことがあげられます。そのことによって積み石背面の構造が実に巧みにできており、しかも1期・2期・3期と進むにつれて進化をとげていたことが明らかになりました。これは全国的に見ても大変な成果です。
 とすれば積み石だけではなく、裏込め石をはじめとする背面の構造も今回の調査の意義にかかわる重要な価値をもっているということになります。

現地説明会で配布された資料などをもとに作成した断面図のイラスト。
溝の位置は昨年の発掘成果をもとに推定した。

 

保存すべき価値のある1期石垣とは、裏込め石層も含めた全体であり、今回、艮櫓の基礎工事が計画されているところすべてがその範囲に入っていると考えるべきなのです。

1期石垣の個性にかかわる問題

 今回の調査で1期石垣が一気に天端(石垣の最上部)にいたるのではなく、いくつかの小段をともなってたちあがっていたことが判明しました。これは2期以降との大きな違いであり、1期石垣の個性ともいうべきものです。
 2000年(平成12)秋の調査で、1期石垣積み石の上部から溝をともなった小段が出土しました(断面図と裏表紙の鳥瞰図)。これこそ上に述べた1期石垣の個性をよく示すものです。ところが、市長会見で示された計画では、この部分をパイル@が通ることになっているのです(断面図と裏表紙の鳥瞰図)。石垣の個性をうばってしまっては、保存に配慮したとはいえません。

他にも1期石垣は眠っている

さて、これまでは1期石垣の積み石が露出している部分、つまりパイル@の周辺に注目して話を進めてきました。しかし、いまの時点で1期石垣の積み石がこの部分だけにしかのこっていないと判断することはできません。というよりも、まだ他の場所に眠っている公算の方が大きいと考えられます。
 積み石も含めた石垣が残っている可能性が特に高いのは、パイルのDが打ち込まれる予定になっているあたりです(鳥瞰図)。この付近は1期石垣が直角に折れ曲がるところで、構造上、石の残りがよいと考えられるのです。しかし、仙台市は十分な調査をすることなく、この部分にもパイルを打つことを決めてしまったのです。
 なお、ここで市長「判断」が出される直前に行われた、地中レーダー探査についても触れておきましょう。これは、仙台市の依頼により、地中に石垣が眠っていないかどうかを確かめるために行われたものです(実施範囲は、鳥瞰図参照)。結果は、「数カ所で反射体が確認されたが、その大きさやどのような物質であるかは現時点では判断できない」というものでした。いわば灰色というところです。当然ながら調査担当者は、精度を上げたうえで再調査が必要と提言しています。しかし、それを無視して市長は「判断」を下してしまったのです。

1期石垣が危ない

以上より、調査がまだ十分とはいえない段階で、しかもその結果をしっかりと吟味することなしに市長が「判断」を下してしまったことは明らかです。「1期石垣の本質的な価値を損なうことなく、艮櫓の建設を進めることが可能である」(市長の会見資料)はずがありません。いま計画されていることは、直径2メートルのパイル6本とそれを補強する地中梁によって、1期石垣をズタズタにし、鉄筋コンクリートの牢獄に押し込むようなものなのです。史実にもとづかない櫓を建てることで、貴重な文化財を破壊するとは、なんと愚かしいことでしょうか。

目次へ

 

安全性について─地震が起きたら、櫓は残って石垣は崩壊?─

「はらみ」はなぜ起こった

仙台城本丸石垣の修復工事は、1960年から急速に進んだ石垣の「はらみ」、つまり表面がふくらむかたちであらわれた石垣の変形に対応することが、もともとの目的でした。「20年以内にマグニチュード7以上の地震が起こる可能性が80%」などというニュースが伝えられるなか、いかに安全な石垣を積み上げるかは、ますます大切な課題となっています。
 ところで、そもそもなぜ石垣に変形が起こったのでしょうか。この点については、はっきりとしたことがいわれていません。仙台市は、かなり以前に石垣表面のゆがみを感知するセンサーをとりつけました。おそらく膨大な観測データが得られているはずです。しかし、そのデータは公表されておらず、もちろん仙台市が、石垣の変形が起こった原因について発表したこともありません。原因がわからないままで新しく石垣を積み上げても、「はらみ」を防止できる保証はどこにもないのではないでしょうか。市は、変形の原因とその対策を明らかにし、市民に対して説明をすべきです。それが石垣修復の出発点であると考えます。

石垣は柔構造

変形・「はらみ」を生じたとはいえ、3期石垣は300年ものあいだ姿を保ちました。そこには何か秘密が隠されているに違いありません。
 石垣は一見、堅くどっしりして何が起きてもびくともしないように見えます。ところが一皮むけばまったく違った姿をしています。たとえば、積み石ひとつひとつはお尻のせばまった角錐のかたちをしています。したがって、前から見ると積み石同士がぴったりとくっついているわけですが、裏に回れば、石と石はほとんど接触していません。そして、すき間には「木っ端石」とよばれる細かい石材が入れられています。積み石は、「木っ端石」というクッションで周りを包まれているようなものなのです。したがって、地震などが起こったときは、このクッションが働いて、うまく力を分散させています。3期石垣が300年もの間もちこたえてきた秘密です。このような石垣の構造を「柔構造」とよび、またそれを尊重した積み方を「伝統工法」とよんでいます。現代においても、安全な石垣を積むには、できるだけ「伝統工法」を採用し、「柔構造」に近づけることが必要ということになります。

ふたたび艮櫓の問題

2000年11月14日の市長「判断」でも、3期石垣の積み直しには、できるだけ伝統工法を取り入れることが表明されています。ところが、艮櫓建設のことを一緒に考えると、大きな問題に突きあたることになります。先に述べたように、現在の計画のとおりならば3期石垣の隅に建てる艮櫓は、非常にがんじょうな基礎構造をもつことになります。まぎれもない剛構造です。これが柔構造である石垣の内部に入っていたら、どういうことになるでしょうか。たとえば地震のとき、石垣は揺れに合わせて動くのに対し、櫓の基礎は動かないということになります。このようなアンバランスが生じた場合、石垣はどうなるのか。これに対して、仙台市から明確な回答は出てきていません。最悪の場合、櫓は残ったのに、石垣は崩壊してしまったということが起こらないともかぎらないのです。

本当に伝統工法が採用されているのか

仙台城本丸では昨年2000年の年末から、はずした石垣の積み直し工事が始まりました。計画通りであるならば、伝統工法によって積み上げが行われているはずです。ところが現場では驚くべきことが起こっていました。本来の積み石にくらべて長さが倍近くもある、しかも直方体の(本来の石材のような角錐ではないということです)石が多数積まれていたのです。とりはずした積み石には 破損したものもありますから、それは新しい石材で補われることになります(中国製です)。伝統工法というのならば、当然、もとの石材と同じかたちに加 工する必要があります。ところが、そうではなかったわけです。この件は文化財保護という観点からも検討が必要ですが、安全性という点でも問題を含みます。直方体の石では、裏側で石と石とが面的にくっついてしまいます。
 しかも新石材は異様に大型です。柔構造の石垣に剛構造の部分が紛れ込むということになります。このような状態で、地震が起こった場合、はたして本来の石垣のようにうまく力が分散されるのか、石垣全体のバランスが失われて、崩壊ということにいたらないのか、大いに心配されるところです。

中国大産の新石材の上に、本来の石材が積み上げられる。両石材の形状に注目(2001年1月22日)


 3期石垣は、文化財として本来のかたちに積み上げる必要があります。それに加えて、地震等で崩壊しないように、安全なものにする必要があります。その際に、よりどころとすべきは、伝統工法と柔構造です。土木工学の専門家も、「伝統工法は複雑で、力学的解明はできない。問題は地盤や裏に詰める石なども含めたトータルの強度だ」、あるいは「(3期)石垣は300年以上もった。同じような工法で、同じような石を使うのがいい」と話しています(新谷洋二東大名誉教授。『河北新報』2001年2月7日朝刊)。艮櫓の建設や本来のかたちと異なった新石材の大量補填は、安全性の面からも大きな問題があるといわざるをえません。
 現在、石垣積み直し工事の現場には展望台が設けられています。「百聞は一見にしかず」。みなさんご自身の目で、工事の様子を確かめてみてください。
 ところで、石垣にとって雨水や地下水をどう処理するかは大切な問題です。これをまちがえると石垣の崩壊にもつながりかねません。3期石垣背面には、非常に巧妙な排水施設がつくられていました。石垣が300年間姿を保つことができた、もう一つの秘密です。この施設は、今回の工事で掘りとられてしまったのですが、できるだけ元に近いかたちで修復する。つまり、「伝統工法」によって復元することが必要だと考えます。ところが、どうも市の計画では、「伝統工法」とはいえない工事を行うことになっているようなのです。そして一番問題になるのが、先程述べた艮櫓の巨大な基礎部分です。コンクリートの束によって排水がさまたげられる可能性が高いからです。このような意味でも、3期石垣上への櫓建設は問題だといえましょう。

目次へ


仙台城のよりよい活用法を考える

国指定史跡をめざす

仙台市の取り組み

仙台市では、1988年に仙台市文化財保護審議会が仙台城跡の国史跡指定をめざすことを答申し、指定をめざした動きを開始しました。今回の一連の動きでも、仙台市長は国史跡の指定を目指すことをたびたび発言しています。
 国に指定を受けるということは、仙台城が日本の歴史を語るうえで欠かせない存在として認められることを意味します。現在、日本の主要な城郭のほとんどは国指定史跡となっており、まだ指定を受けていないものは、仙台城ほか2、3を残すのみというのが現状です。金沢城の場合は、国指定史跡からさらに一歩進んで、世界文化遺産への登録を目指す運動を開始しました。歴史都市仙台を語り継ぐために、仙台城の国史跡指定は重要なステップであるといえます。

国指定史跡になるとどうなるのか

国が指定する「史跡」とは、文化財保護法が定めている文化財のうち、「記念物」のなかに入り、城郭のほか、貝塚や古墳、歴史的人物の邸宅などが指定の対象となっています(記念物には、ほかに名勝と天然記念物があります)。将来的に、県や市、博物館などの公的機関に所管がうつることが約束されていれば、民有地であっても国の史跡指定を受けることは可能であり、そのような事例が実際にあります。
 国の指定を受けた場合、史跡の持つ歴史的な環境を保存するために、新しい建物を建てたり、道路を造ったりする場合に、一定の制限が課される一方、保存や活用のために必要な事業では、国の援助が得られるようになります。たとえば現在、仙台城の調査はすべて仙台市の予算で行われていますが、国指定の史跡となると、その半額程度は国が負担するかたちとなり、また、民有地を買い上げるような場合でも、やはり半額程度を国が支出するようになります。

復元建築の条件

また、文化庁では、歴史的建築物の復元に関して、つぎの三つを条件としています。
  @考古学調査などによって、柱の穴そのほかの遺構が確認できること。
  A歴史的資料として、指図(設計図)が残されていること。
  B古い写真などによって、かつての外観がわかること。
 仙台城の艮櫓の場合、現在進められている建築計画では、これら@からBのすべてに反することになります。@からBのすべてを満足できるのは、最初の復元計画で取り上げられていた、戦災で焼失した大手門のみでしょう。国史跡指定との関わりで、文化庁がどのような判断を下すのか、仙台市側でも詳しく検討してみる必要があります。

まず市の史跡に

まったく意外に思う方も多いと思いますが、現在、仙台城は市の史跡でさえありません。さらに仙台城は、博物館のある三の丸一帯や問題の石垣を含む本丸の周縁部分は仙台市の土地ですが、本丸の大部分は護国神社、二の丸から本丸後背地は東北大学が地権者となっています。史跡として指定されていない以上、仙台城を後世に伝えるという役割は、地権者の良心に任せられている状況にあります。仙台市の土地となっている区画でも、その管理や保存は公園や道路と同じような方法で行われてきました。まず最低でも仙台市の史跡として指定しておかなくては、市の目指す国史跡指定も難しいのではないでしょうか。
 まず市の史跡とし、市民が共有する大事な文化財であることをお互い確認すること、その上で地権者を含めて、全仙台市民の納得が得られるような、保存と活用の計画を立てていくことが求められています。

目次へ

 

新しい文化観光の時代へ ―城下町仙台の史跡整備―

 これまで述べてきたように、仙台城本丸跡の石垣修復工事の現場からは、築城期の古い石垣が発見されたのを始め、石垣の内部構造や土木技術の進化が明らかになるなど、思いも寄らなかった貴重な発掘成果が上がっています。仙台城の偉容を物語る石垣のたたずまいは、発掘現場を訪れた市民や歴史愛好者、歴史研究者に深い感銘を与えるものとなり、全国的にも文化財としての石垣の価値に大きな関心を呼び起こすものとなりました。折しも2001年は、仙台の街が誕生してから400年という記念すべき年に当たります。石垣をうまく活用した文化事業を起こし、また石垣をめぐる情報を仙台から全国に向けて発信することができれば、歴史都市・文化都市仙台の、開府400年記念にふさわしい記念事業となるのではないでしょうか。私たちはこのように考え、具体的な提案をおこないたいと思います。

発掘石垣の展示公開は可能か

 仙台城石垣の場合、3期石垣を修復した時点で、1期・2期の石垣は表からは見えなくなります。新たに発見した貴重な地下遺跡をどのように公開し、後世にその価値を伝えていったらいいのか。これは現在各地の自治体が抱えている共通した悩みのひとつです。
 岡山城では遺跡の一部を掘り下げたままとしておき、その上に仮設の屋根をかけることによって、一定期間、一般に開放するという方法がとられました。これは一時的な措置ですが、高松城では、新しく建てる県民ホールの地下に、かつての石垣をそっくり復元保存するという方法をとっています。各地で行われている発掘石垣の保存と公開に関する情報を集め、交換し、仙台城ならではの方法を模索してみるべきと考えます。

「石垣の道」の整備を

 仙台城には実はほかにも、規模は小さいながらも古い石垣が多数残っています。本丸北壁の3期石垣が元通りの美しい勾配で復元された後には、各所の石垣とつなぐ遊歩道を整備して、「仙台城石垣の道」をつくりたいものです。石垣の道の整備こそ、仙台城の史跡としての価値を高め、観光名所として話題を呼ぶものともなるでしょう。
 そのためにはまず、仙台城全体の石垣を点検し、危険な石垣については伝統的な技法でしっかりと修復することが必要です。現在、本丸西側の「酉の門跡」の石垣、三の丸から本丸へ上る途中の「清水門跡」の石垣は、崩壊寸前の状態にあります。また「中の門跡」の石垣、脇櫓下の石垣については積み直しが不十分です。これらを文化財としてきちんと修復した上で、安全な遊歩道を確保し、説明板を充実させるなどの工夫もこらせば、市民の楽しい歴史散策の場となります。

仙台城本丸跡の全面的な調査発掘を

 仙台城本丸跡は、今回の石垣修復工事が始まるまで、本格的な発掘調査は行われてきませんでした。現在に残る絵図面等の歴史資料によって、政庁や櫓、御懸造などの建物の配置が推測されてきたのですが、1期・2期のあらたな石垣の発見により、築城期の本丸の規模が見直されることになり、したがって他の建物群もこれまで考えられていた位置からずれる可能性が生じています。いずれにしても、仙台城の全容を明らかにするためには、本丸跡の全面発掘が是非とも必要であり、歴史学・考古学の専門家組織による十分な学術調査が望まれます。

仙台城と城下町との繋がり

 また、仙台の歴史は仙台城だけで語ることはできません。戦前、仙台のシンボルとなっていたのは、仙台城の石垣と大手門、芭蕉の辻、そして「杜の都」という言葉のもととなった、かつての武士住宅地にうっそうと茂る樹木でした。
 これまでに開かれてきた石垣問題を考える集会では、芭蕉の辻の景観を復元することこそ、仙台城下町400年にふさわしい事業であり、中心商店街の活性化に直接寄与するのではないかという意見が出され、会場から大きい支持をもって迎えられました。現在、本当の意味で武家屋敷といえるものは市内に1件のみ、蔵をたち並べた商家も数件を残すのみとなっています。わずかに残されていた中心部の緑も、個人住宅がマンションに建て替えられるなかで、急速に失われつつあります。仙台城石垣の問題をきっかけに、城下町仙台の景観と環境を考え直していきたいという意見が強まっています。

観光の質が変わった

 最近、観光は団体観光から個人観光へ、物見遊山から文化観光へと、大きくその質を変えつつあります。自分の趣味や知識を活かして、新しく出会った土地を深く味わうという新時代の観光客は、どこにでもあるようなものでは満足しなくなっているといわれ、また、人寄せのために無理につくられたまがい物には、敏感な拒否反応を示します。
 文化とは小さな違いをおたがいに大事にしていくこと。仙台城にしかない、仙台城の真実のすがたを訴えていくことこそ、新しい文化観光の時代にふさわしいあり方ではないでしょうか。

目次へ

 

仙台で石垣サミットを
−開府400年記念事業の目玉として−

全国で進む石垣発掘

 西暦2000年の12月24日は仙台開府400年にあたるとされます。これは1600(慶長5)年12月24日、伊達政宗が仙台城と仙台城下町の縄張りを開始したという記録にもとづくものですが、この日付は旧暦によるものであり(したがって当時の12月は現在の翌1月から2月にあたります)、また、実際の作業は翌年に始めたと考えられることなどをあわせてみると、今年、西暦2001年が仙台の満400歳といえるでしょう。
 当時、16世紀から17世紀はじめにかけての日本は、世界史上に例のない都市建設のラッシュ。長い戦乱の時代を終えた大名たちは、その軍事力を建設のパワーに振り替えて、次々に城下町を建設していきました。江戸や大坂、さらに現在の県庁所在地の九割は、そのころ建設された城下町であり、現代日本都市のルーツはこの時代にあるといっても過言ではありません。
 近世城下町としてのルーツをもつ全国の主要都市の多くは、ここ十数年のうちに開府400年を迎えることから、城跡の整備に取り組んだり、石垣の調査や修復工事を進めています。仙台城の石垣は全国でも最大規模の修復工事が行われているだけに、とりわけ熱い視線が注がれているのです。そこで今こそ、仙台から声をあげて、石垣修復事業に取り組んでいる全国の自治体に呼びかけ、石垣サミットを開催したいものです。仙台市を会場に、それぞれの自治体の調査発掘の担当者、修復工事の担当者、石垣の研究者、そして石垣に関心のある人々が一同に会して、現段階での成果や問題点などについて情報交換を行う、また文化財としての石垣の保存と活用の仕方などについても大いに議論してみようという企画です。全国石垣サミットの開催は、学術的に大きな成果が期待できるばかりでなく、ひろく市民に学問の成果を還元する、また全国の石垣愛好者の交流の機会としても収穫が大きいものと思われます。

検討委員会の再設置を

 最後に、現在緊急を要しているのは、石垣の修復工事に専門的な知見から助言、指導を行う専門委員会の設置です。仙台市は1997年8月に「仙台城跡石垣修復等調査検討委員会」を組織して、石垣・櫓問題を審議する場としてきました。しかしこの委員会は、昨年8月末に石垣の解体作業がほぼ終了しただけの段階をもって、任期終了を理由に解散されてしまいました。このため、現在進行中の石積み工事について、最も専門的な判断が必要な局面において、専門家による審議・検討を経ることなく、仙台市当局と工事を受注した企業の判断によって進められている現状にあります。検討委員会の開催はまた、市民に情報が公開される機会でもありましたので、委員会が解散されてしまったことは、工事の中身が確認できないうえに、意思決定のプロセスやチェック機能の不透明性という点でも問題が生じています。
歴史的文化財を修復している全国の自治体はどこでも、専門家による委員会を事業の当初から完了段階まで一貫して存続させています。仙台市のように工事の途中で委員全員を解任している例は、異常というよりほかありません。仙台市は石垣の修復については専門研究者に個人的に意見を聞くだけでよいとし、そのための委員会を再設置する予定はないことを表明していますが、万全な修復工事を進める上で、調査検討委員会の再設置を強く要望したいと思います。

    ※本パンフレットに掲載した絵図については、所蔵先である斎藤報恩会、宮城県図書館の
     許可を得ました。また個人で撮影したもの以外の写真は、『仙台市文化財パンフレット第43
     集 仙台城本丸跡の発掘』(仙台市教育委員会文化財課、2000年3月)より転載させていた
だきました。  記して謝意を申し上げます。                        

  目次へ    


【上のイラストについて】
   2000(平成12)年12月時点の石積み工事現場の状況を参考にしながら、鳥瞰的なイラストを描いてみました。忠実な再現図ではなく、現場で用いられている重機その他は省略しております。また中国産石材やパイルの打ち込み予定位置など、部分的な描きこみをおこないました。@BD3本のパイル位置(番号は仙台市が公開している資料「櫓基礎平面図」による)は、艮櫓建設にともない打ち込まれる6本のパイルのうちの、北側3本を示しています。


 【ホームページのご案内】
このパンフレットの内容をより詳しく知りたい方は、以下のホームページをご参照ください。
  ・仙台城の石垣保存問題については、「仙台城石垣保存問題についてのページ」
   (http://www.sal.tohoku.ac.jp/~tyana/ishigaki/)。
  ・石垣修復工事にともなう発掘調査の成果については、「仙台城跡発掘調査事業」
   (http://www.city.sendai.jp/Section/Kyouiku/Bunkazai/Castle/index.html)。
  ・艮櫓の復元事業の概要については、「仙台城艮櫓復元事業」
http://www.siip.city.sendai.jp/kankokoryu/ushitora-yagura/ushitora-index.html)。


 

戻る
トップページへ
つぎのぺーじへ